−さてイサムさん、この度「アライズミュージックストア」を立ち上げることになりまして、その第一弾として旧譜を振り返ってみようという試みで、当時を振り返ってインタビューさせてください。
イサム)インタビューなんかできるのか?
−佐和子の朝、2回くらい見たことあります。
イサム)大丈夫かよ。
−この時って、まだサラリーマンでしたっけ?
イサム)このアルバム出した時に、仕事辞めてミュージシャン一本に絞ったんだよね。
−そうでしたね。まずはタイトルの『Nee』(ニー)なんですが・・・
2枚目だからですか?
イサム)違うわ!『Nee』って言うのは、宮古の方言で『根』の事、なんだよね。おばぁが言ってた言葉で『己(どぅー)が根(にー)ゆ忘(ばし)なよ』(自分の根っこを忘れるなよ。)っていうのがあってさ。その言葉を使いたかったんだよね。
−確かに今でもよく言いますよね。忘れ物は多いけど。
イサム)うるさいよ。
−さて、アルバムの曲にいってみましょうか?改めて聞き直しましたが、なんて言うか・・・1st『天』と比べたらいきなりのロックテイストって言うか、前作からのイメージを覆しましたよね。
イサム)そうだね。一曲目のナカユクイね。俺もまさかこんなにロックになるなんて!!って思ったよ。プロデューサーのかつぼー(徳嶺勝也)が、ロック大好きエレキおじさんだったからね。このアルバムは終始ロックテイストになったんだ。ドラムはコザロックのレジェンド「こーちゃん」。歌中の「ハイ、ハイ、ハイ」とハイを3回も繰り返すところは、誰がどう考えても2回がしっくりくる。かつぼーのアイディアで3回になっんだけど、この時音楽の自由性というものが、僕の中にストンと落ちた。「目からウロコ」あ、いや、「耳からウロコ」だったよ。
−耳にウロコないし。
イサム)目にもないし。
ま、いっか。2曲目の『フーマンユー(豊満世)』ですね。
この曲は今でも好きです。歌詞も深いし。
イサム)あれは、若気の至りだね。方言で歌って良かったよ。標準語で歌ってたら、ちょいとイタイ奴だよ(笑)。モノが満ち溢れたこの国に生きる人間の脆さを、これでもかというぐらいにぶった切ってるし、とても偉そうにね。
−確かに偉そう(笑)でも、ラップ調な感じで曲もかっこいいですよ。
イサム)ミャークフツでしっかりと韻を踏むことを学んだ初の楽曲だね。言葉の響きといい、リズムに乗る感じといい、なかなか心地いい曲だね。
−お!自画自賛!そうだ、友達のDJに頼んでダブミックス作りましたね!いつか出したいですね。
次は『パリんかい』
イサム)どうして? なぜここでこの曲?2曲目まで聴いた人は必ずそう思うに違いないよね。
−確かにロックで強すぎるメッセージからの、驚きののんびりした曲ですね。
イサム)この変化球いいでしょ?これはかつぼーによる作詞・作曲。一家揃ってサトウキビの収穫に出かける様子を、ボサノバ調でほのぼのと歌い上げている。
−人間の脆さからの、キビ刈り!振り幅よ!
イサム)なんでもありでしょ?(笑)このアルバムとは、つまりそういうことなのだ!
−次は『汝とぅまーつき』
イサム)これは、俺にとって、人生初のスウィートなラブソング。
−訳したら?
イサム)「君と一緒に」(笑)
−直球ですね。実体験ですか?
イサム)ノーコメントです。
ド直球のラブソングだな。方言じゃなかったら、小っ恥ずかしくて歌えんよね(笑)。でもね、このアルバムによって、俺は方言で歌うことの強みをしっかりと肌で感じることになった。素直なメロディーは自分でも大好きだけど、「里を覆うあの大きなデイゴの木のように、僕も君を包み込みたい」なんて、よくもこんな歌詞を書き切ったものだ。やっぱり方言で歌って良かったよ。
−次は『闇から光』
この曲は、親族やスタッフ含めて入れるか入れないかって会議でしたね。
イサム)そうだったね。今となっては懐かしいエピソードだけど。
当時は創作意欲が旺盛で何もかもを歌にしようと意気込んでいた。もちろん軽はずみなつもりはなくて、思いを込めて作ったつもりだったけど、特にこの歌には周囲から疑問の声が多く寄せられた。歌詞の内容からして当然のことだね。歌を作るということがどういうことか、この曲をきっかけに悟ることができたのは大きかったな。
−そこら辺で次の『魚売りの少年』
これは、そのまま絵本とかにしてもいいくらいの物語ですね。
イサム)これは思い入れの強い曲だね。方言という語彙の少ない世界で、比喩や暗喩によって身近なストーリーで表現していく手法を、この曲によって学べだことは大きかったよ。
−普遍的でとてもいい物語だと思います。
イサム)いつの時代にもどんな世界にも、こういう家族はいるだろうね。お金持ちになる前が幸せだったってね。
−だから、今もお金持ちじゃないんですね。
イサム)うるさいよ!でも、それが国全体にも当てはまるんだよね。そこまで想像して欲しかったんだよ。
−身近な題材で、現代社会を憂うとは。U2みたい!メッセージが届くといいですね。続いては『Far away』
イサム)暗くて重たいこのアルバムの印象を少しでも和らげようと、意味もなくバランスを取ろうと奮闘して作った楽曲だよ(笑)。
−また出た!振り幅!底抜けに明るいロックテイストのラブソング!
イサム)よくもこんな曲が書けたものだと自分でも今だに驚くよ。後にも先にもこのような楽曲は書ける気がしない(笑)。
当時、素直に鼻歌として降りてくるメロディーをもとに曲作りをしていたから、あんな風に開きっ放しのメロディーの玉手箱が、今はもうフタが壊れてしまって開かなくなっているような気がするという意味で、これもまた貴重な歌かもしれない。
−そしてまたまた問題作の『アッガイタンディ宮古島』
イサム)この曲は、作ろうと思って作ったんじゃなくて、偶然が重なり合ってできた産物だね。当時、僕とギターのかつぼー、キーボードのセイサク、この3人のユニットでライブをすることが多かったさ。休憩時間にかつぼーとセイサクが、宇崎竜童さんの「港のヨーコ」にのせて、しょうもない落ちネタを歌っては周囲を笑わせていた。それを曲にしようぜ!ってことになってさ。完成したら、あらびっくり!誰がどう聴いても「港のヨーコ」のパロディでしかない(笑)僕らはあくまでも宇崎さんへのリスペクトだと信じてこの楽曲を発表するに至ったんだけどね。
−あれから何回か竜童さんに会いましたよね。言いましたか?
イサム)いや、まだ言えてない(笑)。
−今度言っちゃおう。
イサム)やめとけ!
−次は『秋風』
これは失恋ソングですよね?
イサム)そう。ロックな曲が多い中で、どうしてまたこのような曲を挟み込んでしまったのか、未だもって思い出せない(笑)。
−初のロックバラード!少し演歌っぽいですよね(笑)。
イサム)そうそう(笑)。サンタナの「哀愁のヨーロッパ」みたいなのを作りたかったんだけどね(笑)。エレキの代わりにガットギターで寂寥の極みとも言えるメロディーをアドリブで弾きまくっていた。かつぼーのギタープレイに鳥肌が立ったのを憶えているよ。
−そして『オトーリ・インターナショナル』
この曲はたまに歌いますよね。
イサム)宮古島のオトーリ(回し飲み)の光景を、3コードに乗せて歌ったら自然とこんな風に仕上がった。ざわざわした騒がしい雰囲気、酒を速く回せーと急かす空気、それらがファンクのリズムにピタリと収まった。こーちゃんのドラムのシンコペーションが見事にそのツッコミ感を表現していて素晴らしい!かつぼーは、自分でアレンジしていながら、ギターソロには相当苦労していたなぁ。こんなリズムで速く弾くということに慣れていないのか、逆にそれが酔っ払いの雰囲気を醸し出しているわけ。ある意味天才というしかないね。
−雰囲気出てますよね。俺にとっては悪夢の雰囲気(笑)。
次は『犬とぅ猫(イン トゥ マユ)』
イサム)これぞかつぼーの真骨頂!待ってましたって感じ。レスポールの歪みと、ユニゾンのキメ。かつぼーがギター小僧として培ってきたものの全てがここに詰まっていると言っていいよね。
−キメ多いですよね。
イサム)僕がキメなるものに出会ったのもこの曲が初めてで、実にカッコいいと思った。キメはまさにこの楽曲のキメ!犬猿の仲を歌っているのも、ギターの歪みがこれを表現していてピタリときたもんだと、何度聴いても鳥肌が立つ。ああ、レコーディングがこんなにも楽しいのかと思わされた曲だね。
−そして今も人気の高い『Happy我が子(ばがふふぁ)day』
イサム)Happy Birthdayにひっかけてこの曲を作ったんだけど、中身は真剣に出産の感動を綴った歌になっている。我が子の出産に立ち会って、母親の強さと命の誕生の奇跡に文句なしに感動した。この歌のファンがとても多いのには自分でも本当に驚かされるよ。特に出産を経験した女性、これから出産するという女性から「ありがとう」の言葉を頂いたりする。もうこっちが泣きそうになってしまうね。この歌を作って良かったと心から思える楽曲だよ。
−リズムもお客さんと一体感が出るように出来てて好きな曲の一つですよ。最後は、『狭道小(いばんつがま)からぴらす舟』
イサム)数々の曲を生み出してきた中で、この歌ほどエモーショナルに表現できた歌は他にないと言っていいね。故にこの歌に対する思い入れというのもひとしおだけど、漠然としたイメージに始まって、そのイメージが歌を通して具現化していく、イメージを元に作曲という手法をもってそれを形にしていく、というやり方が思い通りにいったのは、後にも先にもこの曲をおいて他にないと思うよ。
−よくわかります。俺もこの曲には思い入れが深い。
イサム)そうなの?
−覚えてますか?安岡(那覇)のロッテリア。「おい、めっちゃいい曲が浮かんだ!」
って言ってきて。どんな曲?って訊いたら、「右からドンドンドンて来て、左からガッガッガッ!て来て、真ん中でズドーン!ウワーって曲。どう?」って言ってました。わかるか!(笑)そんなん、長嶋茂雄か岡本太郎やっしー!って。
イサム)だったね(笑)
−俺はギター1本の弾き語りバージョンが好きですね。
イサム)そう言う人多いね。でも、それがこの楽曲の持つ力かもね。音を抜いた方が伝わる曲かもしれない。そういうことを教えてくれたのがこの楽曲だな。
確かに、ギター1本でやると、ほとばしる言葉たちがメロディーとリズムを凌駕するのを感じたよ。それは僕の中で歴史的な大事件だったな。
−なるほど。会社員からシンガーソングライターへの転換期に、このアルバムを出したってのも大事件ですね。
イサム)島のことを中心に歌った1枚目の『天』(tin)から、いきなりのロックだったり暗い歌詞だったりで、いろいろ物議を醸したけど、俺にとってはとても意味の深い愛すべきアルバムだよ。
−さて、もう終わっていいですか?
イサム)え?もう終わり?こんなんでいいの?皆さん、これで興味持ってくれるかな?
−帰って、サッカー見たいんですよ。
イサム)おい!仕事だろ!
—他に言いたいことがあるなら、別紙でお願いします。
イサム)しょうがないなぁ、サッカー好きだもんね。
まだ『Nee』を聞いたことがない方は、ぜひ聞いてみてくださいね。
−1杯引っ掛けて、勢いでポチッとお願いします。特典でイサムのシャワーシーンDVDが付いてきます。
イサム)付いてませんから!!!!
今だから書ける、というのが、このアルバム『Nee』について言えることです。そう、何を書いてもこの一言に尽きます。当時は言えなかったし、気づきもしなかった。そのくらい僕にとってこのセカンドアルバム『Nee』は、公私ともに物議を醸した代物と言っていいでしょう。今だから書けることを書こうと思います。
まず一つはっきりと言えることがあります。このアルバムはセカンドとしてはふさわしくなかったということです(笑)。あくまでも「セカンドとして」です。作品の中身については遅かれ早かれきっと世に出ていたでしょう。ただタイミングとして2枚目にリリースされるものとしては早すぎたというのが、作者自身の感想です。僕自身はこれをもっと後になって出してもよかった、いや、むしろそうすべきだったというのが、デビュー16年目にして到達した思いです。
2枚目としてリリースしたからこそ、今こうして言えるというのがもちろんあります。当時の僕は無我夢中でした。右も左もわからない音楽の世界の、右と左のほんの一部が見えて来たというに過ぎません。結果、1枚目のアルバムからは超飛躍した世界観のアルバムとなりました。そう、自分でも驚くほどに。
2ndアルバム『Nee』は、1stアルバムとはかなり色彩の違う内容になりました。1stアルバム『天』は、島のおじぃやおばぁや風習などを歌ったものでした。のんびりとのどかで、素朴でピュアでした。僕が幼い頃に見た島の原風景をありのままにスケッチブックに描き出すようにして取り組んだ作品です。それは自然に僕の中から溢れ出る世界でした。このアルバムが思いもよらない大ヒットとなり、宮古島の人たちだけでなく、沖縄本島や県外の人たちまでが買い求めてくれるようになりました。嬉しい誤算とはまさにこのことです。CD即売のインストアライブにはたくさんの人が行列を作りました。どこでライブをしても、お客さんは満杯でした。そして例外なく、ライブ後はCDが飛ぶように売れました。なのでCDのプレスが追いつきませんでした(笑)。
大袈裟な表現に聞こえるかもしれませんが、僕のピークは間違いなくこの時期でした(笑)。冗談なんかではありません。当然、ファンの皆さんや島の人たちは、次のアルバムに大きな期待を寄せていました。また面白いものを出してくれるだろう、笑わせてくれるだろう、自分たちの度肝を抜いてくれるだろう、そう信じていたに違いありません。実際にそんな声をどこにいても耳にしていました。僕は期待に応えるべく、2枚目の作品に取りかかったのでした。
折しもその時、再び学び直した沖縄国際大学の夜間の部で、哲学の教授との出会いがあり、僕は哲学の魅力に取りつかれていました。このアルバムのライナーノーツに「下地勇よ、メジャーになんかならなくていい、売れなくていい、自分の表現したい道を突き進め」と書いて下さった、恩師武田一博先生がその人です。先生の言葉通り、僕は、自分自身から生み出される「普遍的世界」に全てを傾注しようと決心しました。同時に僕の中には、一枚目と同じカラーのアルバムを出したらもうそこで終わる、という思いもありました。なぜなら1枚目で起きた現象はブームだったと思えたからです。確かに僕はその時、紛れもなく一過性の「時の人」でした。ブームには必ず終わりがくる。自分の音楽で勝負しなくては。僕は焦りを覚え始めていました。
その結果、1枚目のアルバムへの執着はかなぐり捨てるようにして、何とも言えない色彩のアルバムが誕生しました(笑)。一言で言うと、未完成のまま完成したようなアルバムです。もしかしたら聞く人によっては、驚くほどに完成していると言うのかもしれません。しかし僕の精神が不安定でした。普遍的世界を歌にしようとして、それえを見る目が未成熟でした。しかしこれもまた表現であり生身の人間の作品と言えばその通りです。あの時の自分だからこの作品が生まれたということにもなります。
あくまでタイミング的にということが大きいのですが、このアルバムは多くの人の期待を裏切りました。下地勇はいきなり遠いところに行ってしまった、と誰もが思っていたようです。その声は直に僕の耳に入りました。そして正直、それは分かっていたつもりでした。それでも、期待を裏切りながらもさらに周囲の度肝を抜いて、島の人たちもファンの人たちもきっと喜んで付いて来てくれると思い込んでいました。しかしそうはなりませんでした。
CDの在庫数と、顕著に増えていったライブハウスの空席の数が、全てを如実に語っていました。
あれから14年が経ちました。デビューして16年目になります。
今になって、本当に今頃になってこのアルバムを手に取るようになりました。何とも不思議な感慨を抱きます。一にも二にも、後にも先にも、ありとあらゆる感情を抱かせてくれたのは、このアルバムだけではないかという気がしています。「たら、れば」の世界になりますが、あの時2枚目のアルバムを1枚目と同じような世界観で作っていたら、僕はまた違った音楽人生を歩んでいたことでしょう。『Nee』をもっと後になって出していれば、ここまで苦労することはなかったでしょう。しかし現実はそうはならなかった。だからこそ、今の僕がいます。
人々が期待していたものを真っ向から覆すことになったこのアルバム『Nee』です。しかし、愛着にも近いこの感情は一体何なのでしょう。手を煩わせた子ほど愛おしいというものに近い感覚なのでしょうか(笑)。今になって言えるのですが、僕はこのアルバムを手にしてほくそ笑んでいる自分が好きです。勢い、若さ、そういった計り知れない力を持つ一方で、精神の未成熟さが際立っています。要約するとこのアルバムは非常に「鼻につく」アルバムなのです。だからこそ、その後の僕の音楽人生に大いなる気づきを与えてくれました。さらなる音楽の深みへと導いてくれました。それは揺るぎない事実です。
そんな波乱に満ちた2ndアルバム『Nee』を、是非聴いてほしいと思います。
今だから言えます。
あの時出したのがこのアルバムで本当に良かった(笑)。