ボクはできる人間です。
そう思い込むことにしました。
あ、いや、思えるようになったのです。
先日、飛行機に乗ったときのことです。
おしっこが我慢できなくなって、戦後最大の、いえ、今世紀最大のピンチを迎えました。
窓側の席に座っていた僕は、トイレに行けるスキを窺ってもう1時間以上が過ぎていました。というのも、僕の隣に座っていた二人(ものすごく体格のいい外国の方)が気持ちよさそうに熟睡されていたので、起こしてしまうのもなんだか申し訳なくて、もう少ししたら目を覚ましてくれるだろうと思いながら、(しかし二人はまったく目を覚まさず)トイレへのタイミングが先延ばしにされていたのでした。そのときはまだ我慢ののりしろがありました。
しかし僕は、自分が読んでいる本にだんだん集中できなくなってきて、ついにそれを閉じてしまいました。
そのときです。
「あと10分ほどしますと着陸のためのシートベルトサインが点灯いたします。化粧室をご利用の方は今のうちに...」
というアナウンスが流れてきました。
(これはもう行かんといかん...よし)
「エクスキューズミー」
恐る恐る隣に座っている大柄の外国人の耳元で囁くように言いました。
しかしまったく反応がありません。その隣の通路側の男性はいびきまでかいています。
「エクスキューズミー」 少し大きめの声で言いました。
無反応です。
(おいおい... どんだけ爆睡よ)
肩をトントンと叩きながら
「エクスキューズミー」
微動だにしません。
(ウソだろ!?...どれだけ寝不足なの)
この人を起こしたとしても、さらにその隣のいびきまでかいている人をも起こさなければなりません。二重のハードルが、なにか人一倍不運な雰囲気を醸し出していました。
僕は一たん自分の座席にきちんと態勢を戻して、ふぅ~っと息を吐きながら、冷静にこの状況を見つめ直してみました。トイレに行かないとして、この状況を乗り切ることができるだろうか?着陸まで我慢できるだろうか?自らの我慢の可能性を検証するように想像してみました。しかしそれはムリだという思いに至りました。もう理性的な余白などどこにも残されていないのです。
僕は身体を前のめりにして隣の人をまたぐように通路側の人の肩を叩きました。
「エクスキューズミー」
するとその人はすぐに目を覚ましました。
「ソーリー...バスルーム!」
と言うと、
「オウ!イエス」
と言って彼は、紳士的な笑みを浮かべながら通路に出たかと思うと、化粧室の方へと歩いて行ってしまいました。
(お、お前が行くんかい...ま、いいだろう、ハードルが一つ減ったじゃないか。)
隣の爆睡野郎を見ると(もはや言葉づかいも荒い)、本当にこんなすこやかな寝顔を見たことがないというぐらい、気持ちよさそうに深々と寝入っています。まったくもって悪気がないのが厄介です。
トントンと強めに肩を叩きました。「エクスキューズミー」
まったく起きません。「プリーズ!」
...
(睡眠薬でも飲んでいるのだろうか)
僕は急にその人が憎たらしくなってきました。
と、そのときです。
「ポーン!」
シートベルトサインが点灯しました。
(マジかー!!、予定より早くないかぁぁ!?)
卑しい心を持った瞬間に、神様は容赦なく審判を下したのです。
「どなた様もお席をお立ちにならないように...」
遠くでCAの声が無慈悲にこだましています。
それが不可能だと悟った瞬間から、ますます不可能感を強めるように、我慢というのは着実に限界に近づいていくのでした。
(いや、絶対に大丈夫)
窮状の淵で、もう一人の自分が現れました。
(必ず乗り切ってみせる) 戦いを挑む自分です。
(ああ、雲が白いなぁ...プリティーウーマンのリフはかっこいいな...次はナボコフを読んでみよう...)
脈絡のないことを次々と考えてみました。
しかしダメでした。
10メートルほど先に見える化粧室のドアについ視線がいってしまいます。ドアを開けて中に入っていく自分を何度も想像しました。開放感とともに膀胱全開で放尿している自分を想像しました。一度その想像が始まってしまうともう止められません。もう一人の自分が持ち込むまったく無関係なシーンと、放尿シーンとが交互に訪れて、その想像の交代周期はどんどん短くなって、頭の中がグチャグチャになっていきました。目の前にあるペットボトルのお茶を全部飲みきって、いっそのことその中に出してしまおうか、いや、それはムリだ。全部入りきらなかったときに途中で止めきれない。っていうかそんな問題じゃないし、そもそもダメだろそんなこと。羽田空港に着いてトイレに駆け込む僕。ああ安心!ってダメダメ、飛行機は今降下をはじめたばかり。
心の中で無言の葛藤が続きました。
ピクピクっ
ついに膀胱のあたりの筋肉が痙攣をはじめました。
今まさに尿道への玄関口に暴徒と化した尿の群集が、ドンドンドンと扉を叩き始めたようです。
「あの時お前がトイレに行かなかったせいだぜ」
尿道入口の門番から厳しいクレームが発せられているような気がしました。
(きっと乗りこえられる)
(あぁダメかも)
(いや、大丈夫)
(やっぱりムリ)
己の中に、強き者と弱き者の果てしない攻防が続きました。
飛行機は時折揺れながらゆっくりと降下していきます。
揺れるたびに膀胱内の液体も揺れる感じがしました。
その揺れは、貯水量満杯のダムが決壊するシーンを連想させました。
隣の爆睡野郎、あ、いえ、熟睡されている紳士は悔しいくらい深い眠りの中です。
化粧室から戻ってきたそのまた隣の人は、用を済ませたあとのさわやかな顔で静かに目を閉じています。(なんと羨ましい)
その空っぽの膀胱に僕のおしっこを半分でも分けてあげたいぐらいです。
一心に、ただ我慢の時間だけが流れていきました。
空港のトイレを出たときの、あの間に合った後の安堵感を、一途にその感覚だけを、一点集中で想像し続けました。
すると突然僕の身体に異変が起きました。
下半身の感覚が麻痺していくような不思議な感覚におそわれたのです。
(もしかして漏らした?)
慌てて股間のあたりを見たのですが、何の変化もありません。僕のデニムは濡れてなんかいません。でも確かにあの我慢できないギリギリの感覚がスーッと消えてなくなっていくのです。どうしたことでしょう?
ランニングハイ、クライマーズハイ、もしやこれは尿意MAXを乗りこえた者のみに訪れる尿意ハイなのだろうか?あり得ないほど我慢の限界に達したごく一握りの尿意者にだけもたらされる、勝利の、祝福の「ハイ」なのかもしれない。とにかく僕は、苦行を乗り超えてようやく悟りの境地に到達した修行僧のように、肉体はもとより、精神までもが、我慢や憎しみや羨みなどが消え去った、穏やかで真っ白な状態に近づいていく感覚を味わったのです。
そしてついに僕は乗り切りました。
人生最大のもよおしものから脱することができました。
羽田空港のトイレで、延々と放出し続ける僕がいました。
隣に立つ人が3回ぐらい入れ替わるまで僕の放尿は続きました。
ボクはやはりできる人間なのです。
ゆるぎない自信につながりました。
これからも諦めることなく困難に立ち向かっていきたいと思います。