今日ある本を読んでいたら、合理化について二つの種類があると書いてありました。頭の回転の悪い僕でも、これは非常に示唆に富んだ内容だと思ったので少し本文を抜粋します。
(以下抜粋)
合理化には非合理的合理化と合理的合理化がある。
非合理的合理化は、たとえば隣人からガラス瓶を借りた人が、それを壊してしまう。そして返して欲しいと請求されたとき、彼は次のように答える。
「第一に、それはもう返したはずだ。第二に、借りた覚えはない。第三に、借りたとき、すでに壊れていた」と。
合理的な合理化の例は次のようなときにみられる。経済的に困っているAが、親戚のBに金を少し貸してくれと頼む。Bはそれを断り、金を貸すことは、Aの無責任な、他力本願のクセを助長するだけであるという。さてこの論理はまったく健全なもののようである。しかしそれにもかかわらず、それは一つの合理化である。なぜならBはどんな事情にせよ、Aに金を持たせることを望まなかったのであるから。彼は、自分ではAの幸福を願ってのことであると思い込んでいるけれども、実際には、彼のケチくささが原因である。
いやー、おもしろい!
僕はこの文章を読んで、世の中にはもしかして合理化が(特にこの健全と思われる合理的な合理化が)蔓延しているのかもしれないと思ってしまいました。つまり始めから論理的思考で物事を考えているようにみえて、実はもともとあった自分の感情や願望に理屈づけをして、うまく調和させているような。でもその人の述べていることの論理性が合理化かどうか見破れないというのが厄介でもありますね。
なによりこれは他人事ではありません。身につまされる思いです(笑)。